田染幸雄の世界 自然との語らい

 
13
 
江田駅前の酒屋さんで・・


背戸峨廊散策を終え、少し早めに江田駅に
帰り着いた私たちは、駅前の酒屋さんに立ち寄っています。
そして、その酒屋さんで偶然出会った人達と取りとめもないまま
話を進めているうちに・・
その人達も、夏井川の紅葉を楽しみにいらしたそうです・・
私は、幼い頃ほんの一時過ごした小名浜のことを
思い出しておりました


これからどちらへ・・
鮫川の紅葉もすばらしかった・・などと話が始まって
私たちが千葉から来た事を知ったお一人が
〈千葉・・名前だけは知っているけれど・・
私たちは小名浜から・・小名浜といってもご存じないでしょうね〉
ところが私は思わず
〈いいえ、昔、小名浜に住んでいたことがあります〉と答えておりました。

住んでいたといっても、何十年も昔のこと、
まだ私が3,4歳の頃でそれも1年半くらいでしたので、
憶えていることと言ったらたかだか、
神社の森の左側の坂道を登っていくと視界がひらけ
その道の左側に家があったこと。
家の窓からは目の下に海が見えたこと・・くらい

小名浜から見えた方たちはお互いに顔を見合わせながら
小名浜もずいぶん変わってしまったから・・
でも、坂道上がって左が海っていうと・・
ほら○○、と地名をあげながら
〈あの辺りじゃないかなあ〉
〈でも、あそこらへんに、神社あった?〉
〈どうだったかしら・・〉

〈小さい頃の記憶だから・・〉と首をかしげる私に
〈それがね、あんがい正確に憶えているものなのよ、そうしたことって。
私も、いろんなこと憶えているねって、親に言われたことがあるし・・〉


  (注・1) 最近になって、当時の住まいが
       「小名浜町神楽場」にあったことを知りました。
       また、いわき市の中央図書館が“地名の変化に見るいわきの近代化”
       という本を編纂したことを知り問い合わせたところ
       昭和32年に、神楽場は諏訪町に併合されたこと
       また、私が憶えていた神社は“諏訪神社”に違いないことも
       教えていただけました。
       現在、諏訪神社の近くには“神楽場公園”があるとのこと。
  (注・2) その頃 常磐線の泉駅から小名浜まで(5、4km)
       “小名浜臨海鉄道”が走っていたそうです。
       1972年(S47)、旅客営業が廃止になり、現在は福島臨海鉄道
       として、貨物専用鉄道となっています。



小名浜で・・なっちゃんの小さな思い出


今日はみんな何をしているんだろうと思いながらなっちゃんは
お庭の中を、あっちへ行ったり、こっちへ来たり・・
棒きれで地面にちょっと絵をかいてみたり・・
でもね、何をしていても、何だか・・
ううん、何もかもがいつもと違うような気がして
気になって気になって、ドキドキしてしまいそう。

お父さんとおよそのおじさんたちがお庭に大きなドラム缶を出して
ときどき中をのぞきながら
棒みたいなもので、何だかわからないけれど何かをかきまぜている・・
何を作っているの?

割烹着すがたのお母さんやおばあちゃんは・・
ばあばもいるみたい・・お家の中で忙しそう。
何できょうは、みんなそんなに忙しいの?

ときどきお母さんがお家から出てきて
お父さんと何かお話ししているけれど
いったい何のお話しをしているの?

みんなみんな、いつもとちがう。

ここは小名浜のお家、なっちゃんのお家
丘の上に建っていて、だから応接間からは、青い海もよく見えたの。

いつもだったら、応接間の木馬にのって


♪♪・・ミヨトウカイノ ソラアケテ 
      キョクジツタカクカガヤケバ・・♪♪
とか  
              (見よ 東海の空あけて 旭日高く輝けば・・)

♪♪・・ナーナーツ ボタンハ サクラニイカリ・・♪♪
              (七つ釦は 桜に錨・・)

とか歌っていたかもしれないのに
でも、でも、今日は何もかもがいつもとちがう。

ポカポカとお日さまがてっていて
だからお庭にいてもちっとも寒くはないの。
でもね、お庭の花も草も、みんなみんな枯れちゃって
木の枝もからっぽ。
お庭にあるものみんな、何もかも、茶色だった。

お空だけが青かった・・
なっちゃんはそのとき
いろんなことをしながら、いろんなことを見ていたの。  
4歳半のなっちゃん


後々の母の話によると、
父のもとに赤紙がきたのは昭和18(1943)年12月31日で、
入隊日は1月9日。

あまりにも急な話だったから、あわただしくて、せつなくて・・
父ももう30歳を過ぎていたし・・それも丙種
小さな子供が三人もいて・・
更に、お腹にはこれから生まれいずる子供もいることだし
となると、母たちにしてみれば
まさかまさかの事だったそうです。

それにしてもいかんせん、あまりにも時間がなさすぎました。

残していく家族のために、今自分に出来ることは何か・・
この差し迫った時間の中で、何ができるか思い悩んだ父は
仕事がら手に入りやすい魚油を使って
石鹸を作っておこうと考えたのだそうです。

そしてその日の光景が、
忘れられない思い出の一齣(ひとこま)として
幼い子供の頭のどこかに眠っていた・・


石組みの上に銀色のドラム缶が載っていたことはしっかり憶えているのに、
不思議なことに、その時の炎の色も
石鹸作りとなれば、魚油を使い、苛性ソーダも使っていたはずで
強烈な匂いもしていただろうに
そうしたことはなにひとつ憶えてはいないのです。

明るすぎるほど明るい陽射しの中で
黙々と動きまわっている人影ばかり・・
何の音も、人声すら思い出せない・・

そして、多分この日のことだったと思う、
もう一つ別の映像・・


門を出ると、道の向こう側はゆるい傾斜の畑地になっていて
その向こうは森、兎やタヌキや鳥がたくさん住んでいると
聞かされておりました。
太い蛇が、ゆっくり道を横切っていくのを見たことも憶えています。

そしてその日、みんなは
ござをかかえて、風呂敷に包んだいくつものお重を持って
畑の向こう側の森に沿った道を歩いていました。
お重の中には、
色々な煮物や海苔巻が詰まっていたのかもしれません。


そしてなっちゃんの記憶・・


畑をぐるっとまわって森のそばの道を歩いていくと、広場があって、
枯れた草がいっぱい、やわらかく重なりあっていました・・
そこに、ござを敷いて座っていた人たちが誰だったのか
何を食べていたのか、どんな話をしていたのか、憶えてはいません。

綿入れ半纏(わたいればんてん)を着たなっちゃんは
じいっと海を見ていたの。
いつもよりいっぱい海が見えるみたいだ。
なっちゃんの後ろには、いっぱい人がいて
いろいろお話ししたり、
お料理食べたり、
お酒飲んだりしているみたい。

今日はみんな、どうしたの。
なっちゃんは思いっきり背のびして、高く高く手をあげてみた。
お空までとどきそう!

たしか、このとき着ていた綿入り半纏は、紅梅白梅の小花模様で、
黒繻子の衿がかかっていたように憶えています。


後から考えてみれば、これは、
父の出征を前にしての、壮行会だったのかもしれません。
そしてこの日こそ、私が父と会った最後の日に
なってしまったのかもしれません。

なぜなら、伯母夫婦の養女となることが決まっていた私は
その日、伯母に連れられて霞ヶ浦の阿見の家に行き
小名浜の家に戻ることはありませんでした。

もうだいぶあとになってから母から聞いたこと・・

父の出征は、とても寂しいものだったそうです。
引っ越したばかりのなれない土地で
見送りも、ごくごく親しい人たちだけ。
昔のように小旗振るわけでもなく、
ひっそりと、それはそれは寂しい出発だったそうです。

戦況も、そこまで逼迫していた、そういうことだったのかもしれません。

母たちが御殿場まで慰問に行った時の写真を見たことがありますが
父が、いつ、どこの港から、どこへ向かって出航したのか
輸送船の名すら知らされてはいなかったそうです。

召集されたのが昭和19年1月9日(1944)で
わずか6か月後の7月18日に、父達が乗った輸送船は撃沈されています。
弟の誕生は、同じ年の7月17日。
この世にわずか1日だけ、父と弟は同生した事になります。

私は、伯母と二人で茅ヶ崎へ伯父の慰問に行った日のことを
それこそかすかに憶えています。
昭和も20年(1945)に入っていて、この日は穏やかに晴れていました。


なっちゃんはひとり、海辺を歩いていたの。
ふり返って見ると、じいじとばあばは丘の上の
さっきと同じところに腰をおろして、お話しているの。
大きな波が、ザッブウンってなっちゃんを追いかけてきて
だいじょうぶだってことぐらいわかってはいても
それでもやっぱりなっちゃんは、走ってにげた・・

〈おおい!〉じいじが呼んでいる・・
〈はーい!〉
なっちゃんは、浜辺の急な坂を登っていった・・
〈茅ヶ崎の海は、急に深くなっているから、水辺には近よるな〉
なっちゃんは、こっくりして、また海の方を見ていたの。

伯父は、幸いにも外地に出ることもなく戦後間もなく復員。

〈もう乗る船がなくなってしまっていた・・〉
伯父は、そんなふうに話しておりました。


石鹸の行方・・

父が作った茶色の石鹸は
小名浜から阿見村へ、そして私たちと共に引越しを続けました。

それは、いつの頃の事だったのか・・

私はもうその頃中学生になっていたのかもしれません。
銭湯で髪を洗っていると、
隣の人がへんなせき払いをしているのに気がつきました。
見るとその人の膝まわりに、薄茶色の泡が流れています。
私の頭から流れた石鹸の泡・・

〈あ、ごめんなさい〉
急いで新しいお湯をくんで石鹸液を洗い流し、下手に移動したのですが
その時私は、今更のように
時代がすっかり変わってしまっていることに気が付きました。

朝鮮戦争が始まっていて・・

みんなが使っているのは真っ白な泡の立つ香り高い石鹸
そして、真っ白なタオル。

それからの私は父の石鹸を
家の中でだけ大事に使うようになっておりました。







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01
 
月夜の線路

その日なっちゃんは、おばあちゃんの割烹着の裾をきゅっと握って
ころばないように、急な坂道を登っていたの。
〈どこへ行ってきたの?〉
〈やぶのお家・・〉
そう、藪(やぶ)のお家へ筍をいただきに行っての帰り道。
その道は、竹の根っこがにょきっと顔を出していたり
大きな石や小さな石がころがっていて、とってもあぶないの。
  
だからおばあちゃんは、出がけに
下駄がぬげないようにね・・と言いながら
駒下駄の鼻緒に赤いリボンを結わえつけ
かかとにまわして、きゅっと結んでくださったの。

   これは、3歳まで住んでいた菊名の家を思い出すたび
   必ずといってもよいほど心に浮かぶ風景で
   そしてこの時の、ちょうど粘土のような
   赤褐色の土の色までが目に浮かんでくるのです。


菊名のその家は、東横線の菊名駅に近い
だらだら坂道を少し登った右側にあって
石段を5,6段登ると門があり
両側には、真黄色のレンギョウの花が、沢山咲いていた。

門を入ると右手に家
左手には、土手を背にして庭が広がっていて
真っ赤に熟れた苺がいつもたくさん実っていた。

玄関を入って右側に、応接間
そしてなっちゃんは、この応接間が大好きだった。
なぜって、出窓の下の戸棚を開けると
そこには、宝物がいっぱいつまっていたから・・
マンドリンやおもちゃのピアノ
絵本や、ぬいぐるみのクマさんやお人形。

   〈こんど直すからといってはお父さんが、
   こわれた物を全部押し込めていたのがその戸棚だったのよ〉と
   母が話していたのを聞いたような気がするのだけれど。


そして蓄音機のまわる音がして・・あの歌が聞こえてくる

  ♪♪・・ポンポンピアノの音がする
      ど~このお家で弾いている
      あっちのお窓をのぞいたら
      赤いダリアが こんにちは・・♪♪


   妹が生まれた昭和17年のはじめ
   2歳半だった私は、よく
   横浜線の大口という所に住んでいた父の友人の家に
   連れて行ってもらっていたような気がする。


お父さんとおじちゃんは、仲よし同級生だったって・・
でもね、おじちゃんのお家には子供がいなかったから
なっちゃんはその日も、おじちゃんの家で
おばちゃんと二人でおじちゃんの帰りを待っていたの。

   きゅっと一つに丸めた髪を後ろでまとめ
   地味な風合いの着物を着て
   お化粧もしていなかったおばちゃんの姿が
   今になってもほんわりと、かげろうのように浮かんでくる。


窓を開けると、すぐそばに線路があって・・

   というより私は、長い間
   “おじちゃんとおばちゃんのお家は、線路の上にありました”
   と思いこんでいたようだ。


お家が線路のすぐそばにあったから、ほんの時たま
ガタガタと窓をふるわせて、電車が通りすぎて行くのがわかったの。
そしたらおばちゃんが
〈ほうらこうしてね・・畳にお耳をつけてごらんなさい。
そうしたら・・ もしかしたら・・
おじちゃんが帰ってくる足音が聞こえてくるかもしれないでしょ〉

なっちゃんも大いそぎで腹ばいになって
畳にお耳をくっつけてみたの。
ほんとうだ!
なんだか急に、いろんな音がきこえてきたみたい。
〈きこえたよ!〉 
なっちゃんは大いそぎでとびおきると
思いっきり大きく窓をあけて外を見た・・

びっくりした!
お空にまんまるお月さま       
線路が、きらきら光って見えた


でもね、だあれもいない・・
なっちゃんはもういちど腹ばいになって
畳にお耳をくっつけた・・
おもしろくて、おもしろくって・・
何どもなんども、くり返しているうちに・・

本当だ!
 
線路のまん中を、影絵のように歩いて来る人がいる・・
ほうら、あの帽子、山高帽子、やっぱりおじちゃんだった。

山高帽子をかぶったおじちゃんは
まん丸お月さまを背中にしょって
ざくっ、ざくっと線路の砂利を踏みしめながら帰ってきたの。

なっちゃんはもう、うれしくって、うれしくて
おじちゃんにとびついた。
おじちゃんも大きな声でほがらかに笑いながら
なっちゃんをだっこしてくださってね・・


   私が知らない間に始まっていた戦争は
   やがて負けて終わった。
   父は戦死して、おじちゃんだけが戦地から帰って来た。


そして昭和21年、復員したばかりだというおじちゃんが
まだ疎開先にいたなっちゃんのお家を訪ねて来てくださったの。

でもね、おじちゃんの、ふさふさまっ黒だった髪の毛は
まっ白に変わってしまっていて・・

〈一晩でこんなになってしまったんだよ〉
おじちゃんは、笑いながら話していたけれど
びっくりしてしまったなっちゃんは
ただただ、立ちつくしていただけ・・。

それに、お父さんが戦死したことを
おじちゃんも、もう知っていたから・・
だから、大人どうしのお話の輪の中に
子どもはもう入っては行けませんでした。

戦争が終わった後、いろんなことがいっぱいあって
みんなの暮らしもすっかり変わってしまっていたから
おじちゃん達とあう機会もだんだん減ってしまっていて・・

それが或る日、
〈あの人はたった一人、田舎に帰ってしまったんですって!〉
そんな風に大人たちが話ているのを聞いてしまったのは
なっちゃんが小学校3年生になった頃(昭和23年)のことでした。

あの人って、もしかしたら、“大口のおばちゃん”のことかもしれない
〈そう、そうにきまっている〉

どうしてか、おじちゃんにはもう新しい奥さんがいて
かわいい女の子もいるんですって・・。

その時なっちゃんはふっと
おばちゃんが帰ったという田舎は
白河に違いない
白河には、いつもなっちゃんをおんぶしてくださった
あのやさしいおばちゃんがいるではないの。

そして、二人のおばちゃんが寄りそうように
あの薄暗いお茶の間でお話している姿を想像しては
なぜかほっとしていたのです。


<田染幸雄と横浜について>

27歳で上京した田染は、当初、建物の絵を多く描いていたようです。
東大付近の家屋、大塚消防署、小樽風景など。
また横浜も、港に近い辺りだと思うのですが、描いたことがあったとか・・。
資料が見つかった折にはそれらの絵も
ホームページ上で紹介させていただきたいと考えております。


    23:25 | Top
 
14
 
周防大島(山口県)は〈金魚のような形をしている〉とよく言われますが、
義弟の運転する車でその島に出かけたのは、2003年7月のことでした。

車は、田布施を経て柳井へ、そして大畠町、
そこから橋を渡って周防大島へ入り
海辺の道を、金魚でいえばしっぽの先まで行きました。

その日は、空も海もすっきりと澄みわたっていて
車窓から見える白い砂浜には人影もなく
小さな波が、ひたひたと寄せては返すだけ。

その海は、瀬戸内海のさらに内海でしたので
いくつもの島が遠く近く点在していました。

やがて義弟が
〈こういう所もある〉といって車を止めたのが、陸奥記念館前でした。

でもその時の私は、<戦艦陸奥>と聞いても
さほどの興味もわかないまま  
背中を押されるようなかたちで館内に入っておりました。
そして、外の暑さとざわめきを引きずったまま展示物を眺めているうちにいつか
とらえようのない、何とも言いようのない心の高ぶりを感じていたのです。

思いがけなくもそこには、
幼き日の私の思い出の品物が展示されていたからです。

予科練の制服、桜と錨の模様のついたボタン・・
いつの間にか
服にさわった時の手の感触まで思い出しておりました。

     <戦艦陸奥>は、昭和18年6月(1943)火薬庫が大爆発を起こし沈没。
     “謎の爆沈”といわれているそうです。
     27年後の1970年7月、引き上げ作業がはじまっています。
     そして陸奥記念館には、引き上げられた多くの遺品、
     また陸奥建造から爆沈までの資料が展示されています


〈1943年(昭和18年)茨城県阿見村で・霞ヶ浦海軍航空隊のこと〉

  ♪♪ ・・ なーな~つボータンは さくらにいかり 
    ぐんと とべと~べ かすみがうらの・・♪♪
    

土浦駅からバスに乗ると、坂下航空隊前、坂上航空隊前というバス停があって
その坂上航空隊の近くにあった小さな住い・・阿見村営住宅
その部屋の中に淀んでいた空気のかたまりが、
胸に迫ってくるようでした。

   〈お客さまがみえるから、お行儀よくしているのよ〉
   いつものように ばあばが言いました。
   うれしくってなっちゃんは、思わずこっくりうなずいていました

   お客さまは、予科練のお兄さんにまちがいない!
   思っただけで 大にこにこ
   いつも、じいじとばあばだけ、
   お友だちもいなかったから
   なっちゃんは、お客さまがだいすき!

   ほうら、やっぱりそうだった!
   予科練のお兄さんと、そのお母さま。

   きょうのお兄さんは、
   〈こんにちは〉ってご挨拶したなっちゃんを抱っこして
   高い高いをしてくださったの。

   もっと前にはね、ばあばといっしょにお茶を出しにいったとき
   両手をついてごあいさつができたなっちゃんを、
   〈いい子だね〉ってほめてくださって、
   あぐらのお膝にだっこしてくださったこともあるの。
   なっちゃんは、うれしくってはずかしくって・・

   おみやげをいただいたこともありました。
   三角形のセロファンの袋に入った甘納豆
   それからエンピツ・・

   でも、いつまでもおじゃましていてはいけませんって
   ばあばに言われていたから
   ごあいさつのあとは、いつもひとりで遊んでいたの。

   お猿さんを見に行ったり
   地面に絵をかいたり、そして歌っていたの・・

   ♪♪・・わーかき ちしおの よかれんの
          なーな~つボタンはさくらにいかり・・♪♪


これは、私が3,4歳ころの話です。
茨城県阿見村で、私が伯母夫婦と三人で暮らしていたのは
昭和17年後半から19年(1942~44)はじめまでの1年少々のことでした。

伯父は日本郵船のコックをしていたのですが
戦況が厳しくなって船をおりることになり
新たに提示された職場がサイパン島か霞ヶ浦。

家族同伴とのことで、昔、東横線の妙蓮寺の菊名池で
ボートに乗ろうとして誤って池に落ちた経歴のある伯母が
船に乗ることに猛反対・・結局霞ヶ浦に落ち着いたそうです。

その後、19年のお正月過ぎに父が出征すると
祖母、身重の母、姉、妹の四人が阿見村に引っ越してきて
総勢7人、狭い家での同居生活がはじまっています。

間もなく(1942年暮か43年はじめ)
39歳の伯父のもとにも召集令状がきて
私たち一家は阿見村を離れることになりました。

伯母がよく、狭くって使い勝手の悪い家だったと言っていたように
村営住宅は今様に言えば3K、それも、
炬燵を置けるだけの3畳か4畳半の和室が台所の隣にあって
あと6畳の和室が二部屋。
そして伯父が、“入ったような気がしない”といつも言っていた
小さなお風呂場がついているだけでした。

村営住宅だったので、同じような造りの家が沢山並んでいて
近くには、霞ヶ浦海軍航空隊と阿見神社がありました。

住宅の入口付近には金網囲いの小屋があって
1匹の猿が飼われていたのですが
昭和19年(1944)の夏私が白河から戻ってきたときには
もうそこに、猿の姿はありませんでした。

また、これは私の想像にすぎませんが、
村営住宅入居の際に何らかの約束事があったのか、あるいは、
伯父が、霞ヶ浦海軍航空隊学生舎食堂のコックとして働いていたので、
その方面からの要請があったのかどうか・・
住宅は時に、予科練の学生さんとご家族との
面会の場所としても利用されていたようです。

そんなこんなを伯母に尋ねたこともあるのですが
〈そう言われてみればそんなこともあったような気がするけれど
もう昔のことだし、忘れてしまったわ。
あの頃のことなんて、もうなんにも思い出したくはない・・〉
 
そんなわけで、
幼かった私の思い出だけを繋ぎ合わせて考えてみると
同じ人がなんどか見えているうちに親しいお付き合いもはじまって・・
弟が生まれたのが1944年7月
そしてその前後一時、私を預かってくださった〈白河のおばちゃん〉も
あるいは予科練の学生さんの親族のお一人ではなかったのかと
かってに想像してしまっております。

また、私が憶えていたことが事実だとすると、
時には、戦地へ赴くことが決まった人たちとご家族との
最後の面会の場所になったこともあったのではないか・・

そうした事ごとを考え、また陸奥の謎の爆沈が
昭和18年(1943)6月8日だったことなどを思い合わせると、
何とも言えない複雑な思いにかられてしまっておりました。



〈2003年・なぎさ水族館にて〉

陸奥記念館の外は、思わず目をつぶりたくなるほどの真っ青な空と
強烈な太陽の輝きに満ちあふれていました。
記念館のチケットで水族館にも入れるようになっていたので
私たちは、吸い込まれるように水族館に入っておりました。
せまい所でしたけれど、
入口近くに、子供たちがはだしで遊べるような水辺が出来ていたり
2階の小さな水槽にはクリオネの姿もありました。

私は、体長4,50センチほどの大きな魚が小さな水槽の中で
じっと動かずに・・へんな表現ですが、たたずんでいる・・
その前から離れ難くなっておりました。

魚の目を見ているうちに
ほら・・ね、目が合った! 少し歩くと、ほら、魚の目も動いた
じっと魚の目を見つめているうちに、
この魚、私の心の中を読んでいるのではないか・・などと
妙な錯覚に陥ってしまっておりました。
水槽の反対側に周ってみると、魚もゆっくりと向きを変えて・・
またお互いじっと目と目を見合わせる時間・・

〈この魚は、人によく慣れるんですよ〉と水族館の方が話していましたけれど
ということは・・私が記念館で受けた衝撃を
この魚だけは、汲み取ってくれたのかも知れないと
ひとり納得しておりました。

水槽に魚の名が書いてあったはずなのに見ておりませんでした。
辞典で調べてはみたものの、はっきりした事はわからずじまい。
でも、絵柄の中で一番近いものといったら・・
もしかしたら、“こぶ鯛”だったのかもしれません。



〈 私の記憶の中の空襲・昭和20年(1945) 〉

私が憶えている、というか、脳裏に焼きついている空襲は
疎開先の埼玉の斎条で目撃した、熊谷市の大空襲でした。
夜空いっぱいに炸裂する閃光
その下から巻き上がるように燃え上がる炎の渦・・

そして私・・
   満6歳を迎えたばかりのなっちゃんは、
   ガチガチと震える歯音をおさえようと
   両手でしっかりと口を押さえていました。
   近くに立っていた男の人たちが
   〈熊谷かい・・〉
   〈・・うんにゃあ、もっと近い・・〉
   〈・・ 〉
   と話していたけれど、
   身動きも出来ずなっちゃんは、ただじっと空を見続けていました。

この熊谷の大空襲があったのは、1945年8月14日
戦争が終わったのが、その翌日の8月15日・・敗戦でした。
その日は、とてもお天気がよくて、そして暑い日でした。

当時私達は、お医者さんの家の、離れを借りて暮らしていたので
畑の間の細い小道を通って裏庭から出入りし
廊下を玄関代わりに使うことも多かったようです。

その日、その裏庭には、村の人たちが何人も集まっていました。
廊下には<ナナオラ・ラジオ>が置いてあって
みんな、黙って放送を聞いていました。

   今日がどういう日なのか
   なっちゃんには、さっぱりわからなかったの。
   どうして今日は、みんなそろってラジオを聞いているの?
   こんなの、はじめてだ! 
   ラジオがなにを言っているのかよくわからなかったし
   いちばん後ろで、
   おじちゃんやおばちゃんの背中ばかり見ていたなっちゃんには
   わけがわからないことばかり・・
   あっち見たり、こっち見たりしていたの。

   ねっ、ほら、畑のあのトマト、
   まっかっか(真っ赤)でとってもおいしそう! 
   〈つばつーけた!〉


    18:19 | Top
 
15
 
田染と共に旅をしている途中、時に
幼き日の思い出の場所に出会うことがありました。
私が生まれたのは1939(昭和14)年、2年後に戦争が始まっています。
父が出征したのが1944年の1月、そして同年7月戦死。

世の中が目まぐるしく変わった時代、その為でしょうか
3,4歳頃から小学校2,3年生にかけての事々を、かすかに
そして、時に鮮明に憶えております。
年代は前後しますがこの場所で
それらの記憶を少しずつ記していきたいと思います。



<白河の思い出>

福島の桃源郷からの帰り道(2001年)、普通列車に乗って
車窓からの風景をのんびり楽しんでいた私はふっと
白河という場所を訪れてみたいと
永年想い続けてきたことに気がつきました。

5歳になった頃、ほんのいっときでしたけれど
“ 白河のおばちゃんの家に預けられたことがあった ”
そんな記憶が残っておりましたので・・

“ 白河の人 ”と伯母たちは話しておりましたが
親戚ではなかったので、後になって母に尋ねても
苗字すら憶えてはいないといった状態でした。
ですから “ おばちゃんの家があったのは白河駅の近くだった ”と
私は憶えていたのですが
もしかしたら白河近くの別の駅だったのかもしれないなどと
まったく半信半疑の状態だったのです。
ただ救いは、駅舎の形状は忘れていない・・ということだけでした。

私の話を聞いた時の彼の、いぶかしげな風情といったら・・
そして私にしても恐る恐る、白河駅の改札を出たのです。

でも現実に目の前に広がっていた空間・・
まさしくそこは、ずっとずっと昔見たことがあって、そして長い間
頭のどこかにしまいこまれていた白河駅の駅前広場でした。

私は広場を直進し、思いきってふり返って見ました。

そしてそこに見たもの、それは、57年前と同じ駅舎・・
思っていたとおりの白河駅が、そこにはありました。



 <昭和19年(1944)7月か8月の白河にて>

  “ むじな ”って、なあに?
  いつものようにたずねるなっちゃんに
  いつものようにおばちゃんは、
  やさしく教えてくださった・・

  だって、神社の森でみんなとなかよく遊んでいたのに
  男の子たちったら、きゅうにまたなっちゃんのこと
  “ むう~つ むじな 泣き虫 や~い ”って追いかけてきたんだから!

  なっちゃんは、泣きながら
  おばちゃんのお家まで走って帰ってきたの

  おばちゃんは、小腰をかがめてなっちゃんを抱えこむと
  やっぱりいつものように、ひょいと背中にまわしてくださった・・
  だからなっちゃんは、ぜったいに安全な場所から
  追いかけてきた男の子たちを
  きゃっきゃ笑いながら見おろすことができたんだ!

今思い返してみるとそれは、“ いつもいつもの、楽しいゲーム ”のようでした。


 <同年の白河駅にて>

  その日もなっちゃんは、おんぶされていました。
  なっちゃんをほいほいしながらおばちゃんは
  線路の土手にそった細い道を歩いていたのですが
  その土手は、ぜ~んぶ、かぼちゃの畑。
  黄色い花がいっぱい咲いていて
  ほうら、葉っぱのかげから
  かぼちゃがたくさん顔を出しているのが見えた。
  でもね、ほんというとなっちゃん、かぼちゃはきらい。
  だってそのかぼちゃは、おいしくなかったの。

  おばちゃんはなっちゃんに言いました。
  “ ほかに食べるものがないんだから、しかたがないの。
  我慢してでも食べないと、大きくはなれないのよ ”
  でもね、なっちゃんは、かぼちゃがきらい!

  その日、おばちゃんと、おばちゃんにおんぶされたなっちゃんは
  線路の下のガードをくぐって駅まで行きました。

  駅前広場には、いっぱい人がいて・・
  お兄さんやお姉さんたちが、並んで立っていました。

  みんなの前に立っていた男の人が
  手ぬぐいでごしごし顔や頭をふきながら
  大きな声でお話をしていて
  聞いているみんなも、ときどき顔をふいていました。
     
  とても暑い日だったから、汗をふいていたのかもしれないけれど
  その時なっちゃんは
  “ 泣いているみたいだ! ”って思ったの。
 
  ささやくような小さな声で、おばちゃんが
  “ 疎開だよ・・”って言って、
  “ みんな、さっきの汽車で着いたばかり・・東京から来たんだよ ”

  そばにいた人たちも
  “ まったくたいへんな世の中になったもんだ ”ってうなずきあっていて・・

  おばちゃんは、ふうっとため息をつきながら
  “ みんな、おうちの人たちと別れて来ているんだよ ”って言いながら
  なっちゃんをほいほいゆすってくださいました。

                     
この時の情景は不思議なほどよく憶えているのに
人々の姿や言葉は、すべてモノクロームでモノトーン・・
なにかの折にこの日のことを思い起こしても、つぎの一瞬には、
駅舎も、先生も生徒も町の人達も
すべてが真っ白な世界に吸い込まれていってしまう・・
いつもそんな気持ちになっていたのです。

でもこの日私は、総天然色の白河駅と57年ぶりに対面しておりました。

見ると、駅舎の右側に新しい石畳の一角があって
二、三人の男の子がスケボーで遊んでいます。
そしてその先のガード下から、買い物かごをさげた人が現われて・・
次の瞬間私は、吸い寄せられるようにそのガードをくぐっておりました。

ガードから外へ・・そこには・・
記憶に残る道、線路の土手にそった細い道が続いていたのです。
いつの間にか私は、なんの躊躇もなく右に曲がって歩きはじめていました。

当時は一面かぼちゃ畑だった線路の土手は若草におおわれていて
所々に、薹(とう)のたったツクシンボウが群れていました。
竹くいに支えられながら、ピンクの薔薇が二、三輪花開いていたり、
小さな野の花もいっぱい咲いていました。

この先に行けば、いつも遊んだ神社の森があったはず・・
そう思いながら土手にそって歩いて行ったのに期待はずれ。
記憶の中での森は
車の往来の激しいほこりっぽい広い道路になっていました。

駅への道をもどる途中
お世話になったお宅はこのあたり・・と思いながら
歩いてみたのですが
家形が記憶の中のそれとは違っていて・・


  ・・玄関を出て、飛び石づたいに5,6歩行ったところに木戸があって
    その木戸を開けると、目の前に線路の土手が続いている・・


位置関係からここだったかも知れない、と思える家はあっても
苗字すら知らなかった私・・
表札を見ても、思い出せるものはありませんでした。



<昭和19年 茨城県・阿見村にて>

  おばちゃんに連れられてお家に帰ってきたなっちゃんは
  大急ぎで、おサルさんに会いに行きました。

  でもね、おりは空っぽ、おサルさんはいませんでした。
  いつもおサルさんが登っていた止まり木も地面も白くかわいていて
  からからに乾いた木の枝が2,3本、地面にころがっていただけ。

  あとでお母さんが、ひとり言のように、なっちゃんに言いました。
  “ あの人、いったいどういうつもりだったんだろう・・
  あんたを養女にほしいって言ったんだよ。
  もう行き先はきまっていますからって断ったんだけれどねえ・・
  そうした事情を、知らなかったわけじゃなかろうに ”


その後、白河の人達の話を聞いたことはなかったし
白河での様子を私にたずねる人もいなかったようです。
 
だいぶ後になってから、白河の人達っていったい誰だったのか
尋ねたことはありましたが、知ってか知らずか首をかしげるばかり。
母や伯母たちが本当のことを言っているのかどうか
私とて首をかしげるばかりでした。
            
いずれにしても、昭和19年の7、8月、
霞ヶ浦航空隊近くの阿見村の村営住宅で
ふた家族がぎゅうぎゅう詰めで暮らしていた頃の話
ましてや、父が出征し、弟が生まれたばかりの頃でしたので
何もかもが混乱のさなか。
みんなみんな、その日その日を生きていくのに精一杯な時代
細かいことなど忘れてしまったとしても仕方がなかったのかもしれません。


そして57年後の白河で・・
いつの間にか、何の気なしに土手を左に曲がって
赤レンガ造りのガードをくぐっていることに気がつきました。

そうそう、ここがおばちゃんといつも通った駅への道、そしてこのガード・・
いつもこのガードをくぐって駅まで行っていたんだなあ・・と思いながら
ふっと、ガードの高さが記憶の中のそれと同じであることに気がつきました。
いつもおばちゃんの背中にいた私は
あの頃も、大人の視線で風景を見ていたのです。

汽車に乗ってもういちど白河の町を振り返ったとき、高台に建つお城が見えました。
桜の花も咲いていて・・
でもそれは、なっちゃんの知らない白河・・
新しい白河が、夕方の光の中に、からっと明るく輝いておりました。

家族の誰もが知らなかった白河・・
私の心の内にだけ存在した思い出を
彼に話すことができて、なぜかほっとしておりました。


    “ むう~つ むじな 泣き虫 や~い ”
    当時私は満5歳の誕生日を迎えたばかり、数えで6歳でした。

    泣き虫=むじな、よく泣く虫といったら
    地虫か何かのことだろうと、思っていました。
    最近になって、何げなく広辞苑を眺めていたら
    狢(むじな)とはアナグマの異称とあって驚きました。
    混同して、タヌキをそう呼ぶこともあるとか・・

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