田染幸雄の世界 自然との語らい

 
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なっちゃんの思い出まとめ


何回かにわたって 「 なっちゃんの思い出 」 を書いてまいりましたが、
思えば、戦中から戦後にかけて、当時幼かった私たちは
現在では、考えようもない
さまざまな経験をしてきたのではないか・・
そして、大人たちの目から見るとちっぽけな子供たちが、
その都度、
それなりの緊張感を持って過ごしていたのではないかと思われます。

その頃の大人たちは皆大忙しで、
そうそう、子どもの面倒を見てはいられなかった・・
そんな当時の情勢を考え合わせると
親達の目の外で、
小さいなりに、世の中を見つめ続けていたのではないか、
そんな気もしてまいります。

私が生まれたのは昭和14年、その2年後に太平洋戦争が始まっています。
ということは、
幼かった頃の私が見ていたのは、戦争の時代でしかなかったことになります。

戦時中、そして戦後のどさくさの中で、
大人たちにとっての非常時・・・それが、小さな子供達にとっては
あたりまえの日常の生活だった・・そんなふうにも考えられるのですが。

焼け跡が遊び場、
満足に食べるものも着るものもない時代、
チフスなどの伝染病が身近に発生したり・・

目まぐるしく移り変わっていく世の中、
そして、ただただその渦の中で流されていただけだったような子供たち・・

そうした意味から、
記憶の底の底のほうに眠っていた幼い日々の思い出を
何回かにわたって書いてまいりました。

また思い出すことがあったとき、
引き続き記録に残していきたいと思っています。






杉並第4小学校s


ここに掲載した写真は
私が小学校2年生になった昭和22年(1947年)の春撮影されたものです。
場所は東京都杉並第四國民學校の裏庭。
よく遊んだジャングルジムが写っています。
手前には滑り台もあったはずです。

注 杉並第四小学校は、現在も中央線の高円寺駅近くにあります。












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なっちゃんの思い出

これも私が小学生(2,3年)だった頃のこと、
チョコレートを沢山いただいた思い出があります。

今は中野区役所やサンプラザ・中野ブロードウエイがある辺り、
多分あの辺り一帯だったと思うのですが、
戦時中は陸軍中野学校があったとか・・
敗戦後は接収されて、アメリカ軍の基地になっていました。
その頃の思い出です。


高円寺の頃・チョコレート
 
中野駅で、おじちゃんが切符を買ってくださっている間、
今しがた出てきた門の方を振り向いたなっちゃんは、
そこに、鉄砲を持ったアメリカの兵隊さんが二人も立っているのが見えて
本当に、びっくり!
その門からたった今出てきたなんて!!
何で気がつかなかったんだろう!

その日、表で遊んでいたなっちゃんに、
近所のおじちゃんが、車に乗るようにって声をかけて下さったの。
その人は、中野のアメリカ軍基地で通訳のお仕事をしているんだって
お家の人が話しているのを聞いた事があったし、
なっちゃんもよく知っている人だったので、
大喜びで、車に乗せていただいちゃった!
ジープっていう車!
あちこちでよく見ていたから知ってはいたけれど
乗るのは初めて!
 
それで、どこへ行ったと思う?
おじちゃんが働いているという、中野のアメリカ軍基地!

車に乗ったまま門を入って、すぐ近くの建物の前で車から降りたの。
言われたとおり、建物の中の薄暗い廊下で待っていると、
おじちゃんが、薄茶色の袋を持ってきて、
〈はいこれ、おみやげ〉ですって! 

中身は何だと思う?
ぜーんぶ、チョコレート!
なっちゃん何だか、どきどき、わくわくしちゃった!
  
そしてその袋をかかえて、
おじちゃんに送られて駅まで歩いてきたから、
袋の中身のことばかり考えていて、門のところの、
アメリカの兵隊さんに気がつかなかったんだ、きっと!


記憶にあるのはたったこれだけ。
ジープに乗って、中野にあったアメリカ軍基地に行ったこと、
門に近い建物で待っていたこと、もしかしたら、
かまぼこ兵舎か何か、簡単な建物だったような気がします。
 
ジープに小さな子供を乗せたまま警備された門を通過出来たなんて・・
でも、チョコレートを頂いた記憶はしっかりと残っているし、
どんなチョコレートだったのか、包装紙の色も憶えています。

昭和22,3年頃の話で、私は小学校2,3年生、
当時、至る所が接収され、アメリカ兵があふれていました。



もう一つチョコレートの思い出

これは、まだ私たち一家が埼玉に疎開していた頃の話です。
当時(1946年)小学校1年生だった私は一人、
夏休み期間中、高円寺の親戚の家に預けられていました。

その家では、近所の人たちと
無尽講(頼母子講)を開いていましたが、
その人達の親睦を兼ねた高尾山詣でがあって
当時その家に預けられていた私も連れていってもらったようです。

その時の思い出です。

高尾山からの帰り道…
おとなたちの後をただだまってついて歩いていただけなので、
駅の名前はおぼえてはいないけれど…

そのとき、なっちゃん達が立っていたホームに、
こげ茶色の汽車も止まっていました。

そしてその汽車には、およその国の人たちがいっぱい乗っていました。
みんな、兵隊さんのかっこうをしていて・・

おばさん達は小さい声で、〈ほらアメリカだよ!〉ですって。
それだけだったらよかったのに、その次に起きたこと…

その人たちが、
窓から何かを投げはじめたの。
なんだか半分ふざけているみたいに、おもしろ半分みたいにね…

ほんとうにびっくりして、思わず後ずさり!
それをひろう人もいたり…
チューイングガムだとかアメだとか話している人もいて…
およそのおばさんが、なっちゃんの背中を押しながら、
〈早くあんたももらってきな〉ですって!
でも、でも…そんなことするのいや! やっぱりいや! 
どんどん後ろにさがっちゃった!

だって、こんなこと初めてだし…
それにほんと言うと、なっちゃん昔から、
アメリカ人もイギリス人もみんな毛むくじゃらで、
耳が大きく立っていて、まっかな顔したオオカミか鬼みたいなもので、
人間じゃないって思っていたの。

高円寺に来てからはじめて、
町を歩いている人やジープに乗ったアメリカの人を時々見ていたから、
やっぱり人間だったってことはわかってきてはいたけれど、
でもね、こんなに沢山のアメリカの人をいっぺんに見なければならないなんて…
だからできるだけ遠くの方からそうっと見るだけにしていたの。

そうしたら、ひとりの人が窓からからだ半分乗り出すようにして、
顔だけ動かして、なっちゃんにおいでおいでってしてるみたい、
なんだか紙ずつみみたいなもの持っててね。
でも、なっちゃん思わず首ふっちゃった!

その人ったら、しばらくのあいだなっちゃんをじいっと見ていたけれど、
持っていたものをほうり出すようにして中にひっこんじゃったの! 
すぐおよその人がそれをひろっていたけれど…
なんだか紙につつんだお菓子みたいだった。

〈あんたばかだね〉ってひとりのおばちゃんが言っていたけれど、
〈もしかしたら、あの人に悪いことをしたのかなあ…〉って
そのときなっちゃんは思ったの。




次の思い出もアメリカ兵にまつわること。

昭和23年の11月に、私たちは、高円寺から新宿に引っ越している。
そして、多分その直後の事だったと思うのだけれど、
東京医科大学の校門近くで経験した、
進駐軍兵による怖い思い出がある。

その時は、伯父と二人で歩いていた。
伯父と二人新宿駅から歩いてきて、花園神社の前のゆるい坂道を登り、
東京医科大学の正門近くまで来たとき、
突然、数人のアメリカ兵に道をふさがれてしまっていた。

そんなに遅い時間ではなかったけれど、11月も末、
それに、当時は外灯などあるわけもなく、
かなり暗かったように憶えている。

中には黒い人もいて、まさに通せんぼ状態・・
彼らは、何か早口でまくし立てていて・・
きっと、お金か何かを寄こせと言っているのだろうと
小さいなりに気をもんでいると、
中の一人が、ふっと私に気がついたらしく、
やめろとでも言うようにみんなを制し・・
お互い何となく顔を見合わせていたようだけれど・・
 
やがて、戻れとでも言うように手を振るので、
伯父と私は、もと来た道へ・・

そして途中右に曲がって・・抜け弁天へ抜ける道・・
中ほどにある交番(この交番は、同じ場所に現存)に立ち寄り、
アメリカ兵の話をしたのだけれど、
3,4人いた警官はただただ困った顔をして、
顔を見合わせるばかり・・ やがて、
〈暗くなったら、今後、あの辺は通らないようにしてください〉
と言っただけ・・

小さいなりにわかったこと・・
〈これが戦争! 戦争に負けるってこういう事だったんだ!〉

どこもかしこも焼け野原、そこにバラック造りの家が建っていて・・
あちこちから富士山が見えた。
遠く、山手線の電車が走っているのも見えた。
伊勢丹だけは焼けずに残っていて・・。







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今年(2014年)の8月で、戦争が終わって69年、
当時満6歳だった私も75歳になりました。
長い年月が流れ、戦争の記憶も薄れがちの昨今ですが
忘れ去られるままにしておいてよいものでしょうか。

久しぶりに、
「なっちゃんの思い出」を書いてみることに致しました。

私が物心つく頃、戦争は既に始まっていました。
父の元にも、昭和18年(1943年)の暮れに赤紙が届き、
19年早々に出征、同年7月に戦死しています。
父たちが乗った輸送船が現地に赴く前に撃沈されたとのこと・・

父の戦死の公報が届いたのは、戦後間もなくのことで
母たちの苦労が始まりました。

私が戦後初めて上京したのは、昭和21年の8月、
満7歳、小学校1年生の時でした。
この時は、親戚の人に連れられて夏休みを高円寺で過ごしています。
初めて見る東京!
大人たちだったら、焼け跡だらけの風景に嘆息したことでしょうが
もとの姿を知らない私は、見るものすべてをそのまま
現実のものとして受け入れていたようです。

焼け跡の土台跡の上を落ちないようにバランスをとりながら
歩いてみたり、草むらに珍しいものはないかと探してみたり・・

この年の秋、私たち家族は疎開先から高円寺に移り住みました。
そして、主を失った母たちには、
生きるための大変な苦労が始まっていたのです。

配給を受け取りに行ったら、乾燥バナナだったとか、
赤ざら砂糖だったとか・・
まず食べ物の確保が並大抵なものではなかったようです。
配給所にたちこめた、
ジャガイモやサツマイモが放つすえたような匂いが
今も私の記憶の中に残っています。

これまでにも「なっちゃんの思い出」の中で
幼き日に経験した様々な体験を発表してまいりましたが
もう少しだけ、記憶に残る事々を書き添えていく予定です。


なっちゃんの思い出
   
まだ私が小学生(2,3年)だった頃のことです。
アメリカの人から、フルーツみつ豆をご馳走になったことがありました。


高円寺の頃  フルーツみつ豆

いつものように道に絵を描いて遊んでいたら、
誰かに呼ばれたような気がしたので、
あわてて立ち上がってきょろきょろしていたら、
なあんだ、お隣のお姉さんが
縁側のガラス戸を開けて手招きしていたの!
そして、
〈この人が、なっちゃんをどこかに連れて行きたいって言っているの。
私、まだお出かけの支度ができていないから、
それまでの間、お願い・・〉ですって。

でもね、〈この人が・・〉って言ったって、その人はアメリカの人・・

お姉さんとお出かけするのをちょくちょく見ていたから
顔はよく知っていたし、
あった時には〈こんにちは〉ってごあいさつもしていたし・・
それに、その人がジャーネーさんという名前だってことも
知ってはいたけれど、
でもね、いったいどこへ行きたいっていうのかしら。

なっちゃんの〈こまっちゃったなあ・・〉っていう顔を見て、
お姉さんたらもういちど〈お願い!〉ですって。
しかたなくなっちゃんも、思わずこっくり!

そんなわけでなっちゃんは、いつの間にか、
ほらあの、なんとかハットっていう、
進駐軍の兵隊さんがいつもかぶっているまん中がへこんだ細長い帽子、
そんな帽子をかぶった背の高いジャーネーさんの横を、
高円寺駅の方へトコトコ歩いていたの。

氷川神社の脇のだらだら坂道を登っていくと右側に
神社の境内に続く三、四段の石段があって、
左側には、焼け跡を平らにならした広場があって、
長屋みたいなバラック小屋がいくつか建っていて・・

夜になると、そこは飲み屋さんになるんだって
大人たちが話しているのを聞いたことはあるけれど、
今はだれもいなくて、
黄色っぽい旗がひらひら風に揺れていて
空っぽのお酒のビンが入り口に置いてあるだけ・・
 
高円寺の南口駅前を通り過ぎて踏み切りを渡ると、
真っすぐに続く広い道と、左手に斜めに入る道があって、
その角にあるのが、果物屋さん。
店先に、氷と書いた旗が揺れているのが見えた。

ジャーネ-さんは、ちらとなっチャンの方を向いて
何か言ったようだったけれど、
なっちゃんの返事も聞かないまま、お店に入ってしまったの。

仕方なくなっちゃんも入っていくと、
お店には二人のお姉さんがいて、ちょっとびっくりしたように
なっちゃんたちを見ていたけれど、
入り口に近いテーブルをすすめてくださって・・
 
またまたジャーネーサンが何とか言いながら、写真を指さして、
いつの間にかなっちゃんの前に、フルーツみつ豆が置かれていたの。

二人のお姉さんはめずらしそうに、なっちゃん達を見ていたし、
ジャーネーさんは、自分は何にも注文しないで、
ただただ、なっちゃんの顔を見つめているだけ。

ほんとに、ほんとにどうしていいのかわからなかった!

それでも果物がいっぱい入ったみつ豆は本当においしくて・・
でも、最後の一口を口に運んで器が空っぽになった時は心底ほっとして、
ジャーネーさんの顔を見て、思わずにっこり、
ごちそうさまって、お辞儀をしたの。

ジャーネーさんもにっこり笑って、優しい声で何とか言って、
だからなっちゃんももう一度、
〈とてもおいしかった〉と言って、こっくりしてしまったの。

そしたらさあ大変、ジャーネーさんたら、
お店のお姉さんに大きなジェスチャーで、
〈もう一つ〉って合図して!

お姉さんがなっちゃんに〈もういらないわよね〉と言うので、
なっちゃんも大きくうなずいてジャーネーさんの顔を見て・・
そしたらジャーネーさんは、そら見たことかというように、
親指を振って、合図して・・
そしてまたまたなっちゃんの目の前に、
フルーツみつ豆の登場・・

いくらおいしいからといって、小さななっちゃんに二つは無理!
一さじ一さじ、しぶしぶ口に運ぶなっちゃんの様子を見て、
これは何かおかしいと察したのか、
〈さあ、帰ろう〉というように、椅子から立たせてくださった・・。


以上は、昭和22,3年、小学校2,3年生の頃の私の思い出です。


中学生になって、ある日の英語の授業中、
すっかり忘れていたフルーツみつ豆のことを思い出し、
そしてその時の、
何かわりきれない思いが、一気に解消されました。
 
あの日、お店のお姉さんの〈いらないわよね〉で
大きく頷いてしまった私。
そしてその時ジャーネーさんは、
その私の頷きを、〈食べたい〉と言っていると判断した・・

アメリカでは、
いらない時には、はっきり〈ノー〉と言わなければいけなかった、
動作で表すなら、首を横に振る・・
 
外国の言葉って難しいなと、その時実感したものです。





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