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田染幸雄の世界 自然との語らい

 
26
 
田染幸雄のエッセイ 9


ブログ「個展・各種展覧会 6」の中ですでに紹介しているエッセイですが、
1975・1・22~2・1 飯田画廊・第2回個展の際に発行された
小画集の写真をそのまま掲載いたしましたので
読みづらいため、再度紹介することにいたしました。


1)IMG_0027s.jpg


得るものと失うもの

最近、自然を大事にしよう、という言葉が
いろいろな方面で叫ばれるようになってきた。
その叫び声が大きくなればなるほど、その声がむなしく聞こえるほどに、
現在の自然環境は急激に変貌を遂げている。
海と山の隣接する温暖な瀬戸内海の、恵まれた自然の中で青年時代まで過ごした私は
自然が人間の生活にとっていかに大切であるか、ということを
身に染みて感じている。
自然と共に過ごした青春の記憶が、現在の制作活動の最中に
もろもろの感慨となって現れてくるが、それにつけても、道、雪、海、樹木等が
公害に浸蝕されていく現状には、なんともいいようのない淋しさをおぼえる。
舗装されていない道などをとぼとぼと歩いている時に、
足の裏に受ける大地の土くさい感触、
白一色におおわれた汚れない雪景色、
限りない広がりと、限りない透明感にあふれた海、
季節の移り変わりと共に様々な色に変化する樹木、
そういったものがなぜ失われていかねばならないのであろうか。
そういったものとひきかえに、
人間は何を得ようとしているのであろうか。
得るものははかりしれないかもしれない。しかし失うものもまた、
二度と得ることのできない大切なものであるということは
まちがいのないことである。





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27
 
田染幸雄のエッセイ 8


今回紹介する田染幸雄のエッセイ「 道 」は、
昭和52年に発行された「 ニッサングラフ 11 」に 掲載されていたものです。


道…
それは私がいままで絵筆に託した探索のテーマで、
これからもこの “ 道 ”をさらに描き続けていきたいと思っている。
四季折々に、日本の風土性を象徴する微妙な自然現象のよろこびを
この道に感じる。

毎月出かけるスケッチ旅行で“ 道 ”への執心は募るばかり。
ときには季節を変えて幾度か同じ道に足を運ぶと
折々の異なった風情で私をひきつけ
道と景色の相互を痛感する。
“ すべての道 は風景に通ずる ”
そこに素晴らしい舗装道路が通じていたにせよ
車同士のせりあいでイライラムードでのドライブであっては
自然を楽しむ心も不条理である。景と情はうつり合う。
正しいマナーをとおしてみる自然のたたずまいは、
求め触れ合う心の融和である。

私が理想としている作品は、道をもって画竜点睛としている。
風景のツマに道を描くのではなく、道の中に風景を添加している。

この秋訪れる大勢のモータリストが
道と風景に寄せている思いにもこんなものがあろう。
しっとりした道を気ままに静かに走る。
そこには、ひっそりと息づいている大自然のパノラマ、
私はいつもそんな道を探し求める。
マスメディアで案内されている観光地は、
都会地さながらの雑踏にまみれ、周辺の美観も損なわれる。

私は職業柄、道を絵で知っているが、
モータリストも、
切っても切れない仲のこの道にもっと深い親しみを持てば、
ただそこを走るだけで心が和み、
周囲の景色も美しく心に映えることだろう。
それは必ず、足元からはじまる。
美とは概念ではなく、求め触れ合う心根だと思う。







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02
 
田染幸雄のエッセイ 7



画集より11l



郷里・思い出


私の育った徳山は、もと毛利藩の城下町で昔から良い港があり、
陸上海上交通の要であった。
戦前、海軍燃料廠やそれに関連した工場が設置され、
現在は出光興産を中心とした大規模な石油コンビナートになっている。
沖合10㎞程には、
人間魚雷回天の特攻基地が置かれたことで知られる大津島があり、
そこには当時をしのばせる基地跡が残っている。

16歳の時、ここにあった第三海燃幹部養成所で修学、技術者を目指したが
終戦を迎えそこは閉鎖されてしまった。

行く場所も目的も失ってしまったのだが、
父親の影響で水彩画や日本画を描いていた私は、
それに熱中するようになっていた。
行きどころのないエネルギーを明確な目的もなく絵を描くことにぶつけていた。
まあ、器用に描くといったレベルのものであったが、
描きまくってうまくなることだけ考えていたのである。
両親はそんな自分に黙って絵具を与え、油絵具もそろえてくれた。
息子の才能を信じていたというより、
余計なことを考えず夢中に絵を描いている方がよいとでも思っていたのであろうか。

昭和24年に「 研究生募集 」という広告が目にとまり、
松田康一先生が主宰する岩国美術研究所に応募した。

松田先生は、フランスで絵を学び、
ビルマ国会議事堂の壁画を手がけたり、と活躍して
岩国に理想的な研究所をと、私財を投じた人であった。

全寮制で最低限の画材は無料で支給された。
アシスタントには、美術学校卒業の人が二人来ており、
今日考えても、内容的には素晴らしいものであったし、
私にとっては大変幸運なことであった。

米軍基地でペンキ塗りのアルバイトをしたのも、
その当時の懐かしい思い出である。

2年ほどこの研究所で油彩画の基本を習った後徳山に戻ってからも
現在の光市や徳山市、隣の町鹿野町に取材をして風景を描いていた。

このころは、風家といってもそこにある古い建物が主であった。
近所に日本画( 南画 )をする人がいて、
顔を出しては少々いたずらをしているうちに
「 岐城 」などと号をもらって楽しんでいた。
田舎のことで呑気と言えばそれまでだが、
戦後すぐの都会生活からすれば確かに何とも呑気であった。

しかし、それなりに目的を持てたのは今でも両親に感謝している。
市展や県展に出品して賞をもらったりしていると、
近しい人の中にはそれを求めてくれる人もいたりして、
特に絵を描く以外何もなかったので、それで充分生活が成り立っていた。

郷土の友人から声がかかったのが27年ごろ、
東京で出版の仕事をしないかということであった。
ここでも幸運であったのは、
講談社と契約ができ安定した仕事ができたことであった。

挿絵、イラスト、レタリング、構成、と頼まれたことをこなしていった。
少年マガジンや小説現代、学習誌、少年少女向けの単行本と
忙しい生活を送っていた。

記念に何かをとっておくということをあまりしないので、
こうしたものは手元には何も残っていないが、
出版の慌ただしい仕事の中で覚えた
何か新しいものをという好奇心だけは持ち続けたいと思っている。

形真展、新自然展、飯田画廊での個展、百貨店での作品展と
いろいろの形で作品を発表してきた。

油彩の技法については、グループの人や招来された展覧会からずいぶん
盗ませてもらってきた。その技術が、
確かに自分の制作の制約を解放してきてくれたのは事実であろう。

雪、石、土、水の質感は自分の表現ではどうしても必要なものであったし、
その技術が自分の好奇心、表現を可能にしてくれているのである。

自然が自然に「 いたずら 」をする、
自然に対しての何気ない人為が妙に自然らしく見える。

雪の道の車の跡、砂の上の波のいたずら書き、谷川の水の作る紋、
雪の上の足跡、雪景の中の木の温もり、
技術的にもまだまだだと思いながらも、
心の中にいつも余裕を残して、絵を描いてゆきたい。













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02
 
田染幸雄のエッセイ 6




画集より7l


フランスへ


昭和52年4月と53年11月に友人とパリに行った。
主に美術館巡りの旅であったが、友人が帰国後すばやく
個展で成果を披露しており、私の不器用さを証明してしまった。
くやしいから・・ではなく、いずれじっくりと思っていたが
55年に思い切って妻と娘を引き連れて
10か月パリ近郊に滞在した(子供もまだ4歳でチャンスであった)。
バルビゾンにも1か月滞在し、
シャイイ、ムラン、フォンテンヌブローと歩きまわった。
友人との旅では、アップルパイ5人前を食べなくてはならなかったりの
珍道中であったが、この時は、
妻がフランス語を少々勉強して行ってくれたので
横で“ ウイ“ と言うだけで、
思ったものが食べられたのが何よりありがたかった。

パリ近郊のマント・ラ・ジョリのホテルに1か月滞在の間に
ルーアン、ポワシーと近郊を見てまわり、
その地でアパートを借りてからは、そこを拠点に
モナコ、ニース、カンヌ、マルセイユ、さらにツールに1週間
ベルギーに1週間、また、ミュールーズ、コルマー、ストラスブール、
オンフラー、シャルトルと旅をした。
子供がいたのでどこへ行っても声をかけられて、
妻は愛想よく答えていた。

マント・ラ・ジョリにアパートを借りたのは、
勿論そこが大いに気に入った所であったからだ。
河畔の建物など同じ所を、何度もくり返しスケッチした。
ペンでスケッチしたこともあったが、スケッチではなくペン画になってしまい
景色も見ずに半日、目はスケッチブックの上であったりしたこともあった。
以来ペンは持ったことがないが・・。

若いころ、パリで絵を描くことは大変な夢であったように思う。
それが、家族をつれて旅ができたことは、内心の少々の興奮はあったが
時代の差を思わずにはいられない。
まあどちらにしても、若いころからの夢と現実、家族へのサービスが
うまくできたのは事実である。






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03
 

 東北・群馬の旅 ― 民家を訪ねて




画集より6l



田染幸雄のエッセイ 5


形真展や個展で、雪景や道を多く描いているうちに
徳山にいた頃さかんに描いた建物を描きたくなってきた。

昭和50年 4月 岩手県・早池峰、大泊、雫石、小岩井
       8月 山口・福知山・京都
       9月  水上(藤原郷)

  〔注〕藤原郷への旅は、このあと50年11月、51年には3月と8月
     52年2月と11月、54年5月・・と続いています。

昭和53年 5月 青森・十二湖、五所川原  山形・田麦俣
          岩手・遠野他
昭和54年 2月 山口、広島・芸北地方
昭和58年11月 群馬県・長野原、六合村、沢渡


水上の旅はいずれも茅葺屋根の民家を訪ねたものであった。

岩手では、遠野から早池峰に向かった。
北上山地にある遠野は、民話と伝説の町で知られている。
ここからバスで、終点大出まで行き歩いたのである。
この旅では、曲り家や中門造りの民家を見るのが目的であった。
よく知られる南部の曲り家は、土間を挟んで台所と向き合う形で
直角に張り出た部分に馬屋がある。
人と馬がひとつ屋根の下に同居する、いかにも馬産地らしい様式である。

小岩井周辺では、雫石近辺を歩いて岩手山を眺めながら北上
上流の、葛根田川等を取材している。

秋田、能代から北上した五所川原から十三湖辺の旅は、
金木で「 斜陽館 」に寄ったりして、
めずらしく文学的な気分にさせられた旅であった。


岩木川河口の潟が十三湖、
江戸期には港として機能し賑わったということであるが、
見渡す限りの原野で何か切なくなる風景だった。
    
山形の鶴岡からバスで1時間ほどで田麦俣温泉である。
六十里越街道沿いにある山深い集落で
甲造り茅葺き3階建ての多層民家を訪ねた。   
湯殿山、月山を背にした地である。
出羽三山と言えば、修験者の修行の地で知られている。
標高1900m余の月山は、
7月でも雪を残す厳しい山で、山頂に月山神社がある。
こうした厳しい場所と行動的な修験者の取り合わせが
妙に心惹かれる。
自然の厳しさを楽しんでしまっている私はこれ以上言うまい。





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