田染幸雄の世界 自然との語らい

 
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今年(2014年)の8月で、戦争が終わって69年、
当時満6歳だった私も75歳になりました。
長い年月が流れ、戦争の記憶も薄れがちの昨今ですが
忘れ去られるままにしておいてよいものでしょうか。

久しぶりに、
「なっちゃんの思い出」を書いてみることに致しました。

私が物心つく頃、戦争は既に始まっていました。
父の元にも、昭和18年(1943年)の暮れに赤紙が届き、
19年早々に出征、同年7月に戦死しています。
父たちが乗った輸送船が現地に赴く前に撃沈されたとのこと・・

父の戦死の公報が届いたのは、戦後間もなくのことで
母たちの苦労が始まりました。

私が戦後初めて上京したのは、昭和21年の8月、
満7歳、小学校1年生の時でした。
この時は、親戚の人に連れられて夏休みを高円寺で過ごしています。
初めて見る東京!
大人たちだったら、焼け跡だらけの風景に嘆息したことでしょうが
もとの姿を知らない私は、見るものすべてをそのまま
現実のものとして受け入れていたようです。

焼け跡の土台跡の上を落ちないようにバランスをとりながら
歩いてみたり、草むらに珍しいものはないかと探してみたり・・

この年の秋、私たち家族は疎開先から高円寺に移り住みました。
そして、主を失った母たちには、
生きるための大変な苦労が始まっていたのです。

配給を受け取りに行ったら、乾燥バナナだったとか、
赤ざら砂糖だったとか・・
まず食べ物の確保が並大抵なものではなかったようです。
配給所にたちこめた、
ジャガイモやサツマイモが放つすえたような匂いが
今も私の記憶の中に残っています。

これまでにも「なっちゃんの思い出」の中で
幼き日に経験した様々な体験を発表してまいりましたが
もう少しだけ、記憶に残る事々を書き添えていく予定です。


なっちゃんの思い出
   
まだ私が小学生(2,3年)だった頃のことです。
アメリカの人から、フルーツみつ豆をご馳走になったことがありました。


高円寺の頃  フルーツみつ豆

いつものように道に絵を描いて遊んでいたら、
誰かに呼ばれたような気がしたので、
あわてて立ち上がってきょろきょろしていたら、
なあんだ、お隣のお姉さんが
縁側のガラス戸を開けて手招きしていたの!
そして、
〈この人が、なっちゃんをどこかに連れて行きたいって言っているの。
私、まだお出かけの支度ができていないから、
それまでの間、お願い・・〉ですって。

でもね、〈この人が・・〉って言ったって、その人はアメリカの人・・

お姉さんとお出かけするのをちょくちょく見ていたから
顔はよく知っていたし、
あった時には〈こんにちは〉ってごあいさつもしていたし・・
それに、その人がジャーネーさんという名前だってことも
知ってはいたけれど、
でもね、いったいどこへ行きたいっていうのかしら。

なっちゃんの〈こまっちゃったなあ・・〉っていう顔を見て、
お姉さんたらもういちど〈お願い!〉ですって。
しかたなくなっちゃんも、思わずこっくり!

そんなわけでなっちゃんは、いつの間にか、
ほらあの、なんとかハットっていう、
進駐軍の兵隊さんがいつもかぶっているまん中がへこんだ細長い帽子、
そんな帽子をかぶった背の高いジャーネーさんの横を、
高円寺駅の方へトコトコ歩いていたの。

氷川神社の脇のだらだら坂道を登っていくと右側に
神社の境内に続く三、四段の石段があって、
左側には、焼け跡を平らにならした広場があって、
長屋みたいなバラック小屋がいくつか建っていて・・

夜になると、そこは飲み屋さんになるんだって
大人たちが話しているのを聞いたことはあるけれど、
今はだれもいなくて、
黄色っぽい旗がひらひら風に揺れていて
空っぽのお酒のビンが入り口に置いてあるだけ・・
 
高円寺の南口駅前を通り過ぎて踏み切りを渡ると、
真っすぐに続く広い道と、左手に斜めに入る道があって、
その角にあるのが、果物屋さん。
店先に、氷と書いた旗が揺れているのが見えた。

ジャーネ-さんは、ちらとなっチャンの方を向いて
何か言ったようだったけれど、
なっちゃんの返事も聞かないまま、お店に入ってしまったの。

仕方なくなっちゃんも入っていくと、
お店には二人のお姉さんがいて、ちょっとびっくりしたように
なっちゃんたちを見ていたけれど、
入り口に近いテーブルをすすめてくださって・・
 
またまたジャーネーサンが何とか言いながら、写真を指さして、
いつの間にかなっちゃんの前に、フルーツみつ豆が置かれていたの。

二人のお姉さんはめずらしそうに、なっちゃん達を見ていたし、
ジャーネーさんは、自分は何にも注文しないで、
ただただ、なっちゃんの顔を見つめているだけ。

ほんとに、ほんとにどうしていいのかわからなかった!

それでも果物がいっぱい入ったみつ豆は本当においしくて・・
でも、最後の一口を口に運んで器が空っぽになった時は心底ほっとして、
ジャーネーさんの顔を見て、思わずにっこり、
ごちそうさまって、お辞儀をしたの。

ジャーネーさんもにっこり笑って、優しい声で何とか言って、
だからなっちゃんももう一度、
〈とてもおいしかった〉と言って、こっくりしてしまったの。

そしたらさあ大変、ジャーネーさんたら、
お店のお姉さんに大きなジェスチャーで、
〈もう一つ〉って合図して!

お姉さんがなっちゃんに〈もういらないわよね〉と言うので、
なっちゃんも大きくうなずいてジャーネーさんの顔を見て・・
そしたらジャーネーさんは、そら見たことかというように、
親指を振って、合図して・・
そしてまたまたなっちゃんの目の前に、
フルーツみつ豆の登場・・

いくらおいしいからといって、小さななっちゃんに二つは無理!
一さじ一さじ、しぶしぶ口に運ぶなっちゃんの様子を見て、
これは何かおかしいと察したのか、
〈さあ、帰ろう〉というように、椅子から立たせてくださった・・。


以上は、昭和22,3年、小学校2,3年生の頃の私の思い出です。


中学生になって、ある日の英語の授業中、
すっかり忘れていたフルーツみつ豆のことを思い出し、
そしてその時の、
何かわりきれない思いが、一気に解消されました。
 
あの日、お店のお姉さんの〈いらないわよね〉で
大きく頷いてしまった私。
そしてその時ジャーネーさんは、
その私の頷きを、〈食べたい〉と言っていると判断した・・

アメリカでは、
いらない時には、はっきり〈ノー〉と言わなければいけなかった、
動作で表すなら、首を横に振る・・
 
外国の言葉って難しいなと、その時実感したものです。





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