田染幸雄の世界 自然との語らい

 
30
 
 なっちゃんの思い出 疎開  

 
戦争がとてもはげしくなり
昭和20年のはじめ頃にはじいじも出征して
夜中に空襲警報が鳴ることもありました。

そんな時、いつでも逃げられるように
枕もとに用意しておいた防空頭巾をかぶり半てんを着て
リュックサックをしょって
家族はみんな、阿見神社の境内まで大いそぎ大いそぎ!

生まれたばかりの弟をおんぶしたお母さん
おひつや、大事な物を一まとめにした袋やござをかかえた
ばあばとおばあちゃん

なっちゃんは
参道の石畳にしいたござの上に寝て、空を見ていたことを憶えています。
真っ黒に見える木々の間から、高い高い空が見えて
こま切れの空だったけれど、お星さまが光っていました。

  (注) 当時私たちは、母の姉(伯母)を “ ばあば ” と呼び
       その夫(伯父)を “ じいじ ” と呼んでいました。
       そして、伯父の仕事の関係で、霞ヶ浦海軍航空隊近くの
       阿見村営住宅に住んでいたのです。

戦争がはげしくなって
霞ヶ浦航空隊近くのこの辺りは
とても危ない場所になってしまったと大人たちは話していたし
それに、じいじが出征していなくなってしまったので
もうこの家には住み続けられないってばあばが言いだして
しかたがないから
じいじの田舎に引っ越すことになったんですって。

  そして
  大人子ども合わせての7人家族は、やむにやまれず
  伯父の故郷に疎開することになりました。

  長男であった伯父は若い頃
  農家の後継ぎになることを嫌って家をとび出しています。
  それなのに、その家を頼っての疎開・・となると
  戦時下という大義名分があったにせよ
  大人たちにしてみれば、肩身の狭い思いだったことでしょう。

  更に、屋号で呼びあうような古くから続く土地柄
  よそ者にはわからない、その土地ならではの風習もあったはずですから
  それ相応の気遣いも必要になってくるわけです。

  また、非常時ゆえに仕方なかったとはいえ
  頼られた家の人たちにしても、さぞや大変なことだったでしょう。。

  住まいは、近くのお宅の離れを借りることができ
  畑もわずかながら使わせていただけて・・
  ただ、慣れない農作業は
  かなりしんどいことだったようにも聞いています。

  また、その辺りの水質が良くなかったそうで
  引っ越して間もなく、近所の人たちが
  井戸水の濾過(ろか)装置を作ってくださったことを憶えています。

  箱の中に、砂、細かい石、中ぐらいの石、大きい石
  と順繰りに積んでいき・・そして
  〈しばらく使ったら、それぞれの石を洗って、同じ手順で積み直すように〉
  と教えてくださいました 
 
  赤茶っぽくにごった井戸水が
  石を入れた箱をくぐると、ほらね、きれいな水になって流れてきた!


  これは、子どもにとってはとても不思議な光景で
  わくわくうきうきしながら、あっちから、こっちから
  行ったり来たりしながら見ていたことを思い出します。


じいじのお母さん=なっちゃんのおばあちゃん
(なっちゃんは、いずれはじいじの子供になる運命なのだからって・・)

おばあちゃんのお家の庭には 
いろいろな木が植えられていて、果物の木もたくさんありました。
はたんきょうにぐみ、柿もいちじくも。
おばあちゃんにざくろをとっていただいたこともあったし
ひとりで、三股(さんまた)を使って柿をもいだり
すっぱいぐみをつまんで顔をしかめたり・・

おばあちゃんは、庭に広げたむしろのまん中に座って
木の板で、パタンコ、パタンコって
からからに乾いた豆の枝をたたいているの
するとほうら、さやの間から、豆がいっぱいこぼれてきた・・

卵のからや貝がらをつつきながら、にわとりがお庭を散歩していたり・・

  今になってもまだ
  縁側に腰かけて足をぶらぶらさせながら
  真っ黒に粉をふいた甘い枝柿をかじり
  目新しい風物を眺めていたときの
  そのときの光景が懐かしく目に浮かんできます。







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